竹内栖鳳の下絵展ー京都市美術館

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今回の竹内栖鳳展と並立して竹内栖鳳の下絵展も行われていた。
竹内栖鳳の下絵や、スケッチをメインで展示し、最後には同年代の画家の作品が下絵と並べて展示してあった。

もちろん幾つかしかなかったが完成作品もあるにはあった。
また、下絵のキャプションには完成図が小さく載っていたりして、比較しながら見ることができたし、先ほどまで見ていた本展の方の作品のした絵もあったので、それらを想起しながら見ることも面白かった。

下絵のの魅力は製作過程を感じることができるということだ。
完成作品ばかりに目を奪われることが多く、そのあまりの完成度に、どのように筆を運んだかなどを考えることはあっても、どうやってこの作品になるのに至ったかについて考えることを放棄することが多い。どんなスケッチでどんなした絵にしたのか。あまり触れることのない下絵の世界は、案外興味深く魅力的なものだった。

殊、この下絵に関してびっくりしたことが二つある。
一つ目はその大きさ。二つ目は描き込みの少なさだ。

冷静に考えれば確かに作品サイズで下絵を描くというのは大事なことなように思う。思うが、自分ならばある程度のサイズで構図などを全て決め、本番前に拡大し、修正、本番という方法を取る。しかしながら栖鳳はあらかた決めたら作品サイズに起こし、何枚が下絵を制作しているようだった。もちろんそうすべきだが、やっぱり紙が勿体無い気もするし、何mもあるものを幾枚か描いて、その上そこでどんどん修正するというのは考えにくいと感じた。

描き込みの少なさは本当に異様だった。
下絵といえば完成図を起こしてみるという意味合いも強いはず、なのに輪郭が描かれているくらいで、全然描き込みがない。毛並みやそう言ったものは描かれていない。
ほとんど構図、動物の向きやそういうのを確認するくらいの意味合いしかない。
細かいところはほとんど描かれない。

不安ではないのか。

確かに何度も同じものを描くのは面倒だ。自分も下絵、エスキースはできるだけしたくない。だけれどこれだけ大きなものを仕上げるとなると、本番とのズレをできるだけなくして、成功率をあげたい。
にもかかわらず栖鳳は下絵と本番とが、違うことすら当たり前にあるという。下絵を見て、本番で修正する、ちょっと想像がつかない。

栖鳳曰く、
それぞれの配置に気を配ることはもちろん、それぞれの塊の形を考え、構図を決めることが重要である。
一つ一つのモチーフが重なり合い作る形をよく考え、構図を決定する。当たり前といえばそうだし、考えていないのかと言われればそんなことはないけど、やはり個々の配置に傾倒しがちである。全体の中の塊塊を考えて作っていくともっと考えやすいのかな、と、自分にとってはほとんど青天の霹靂と言っていい衝撃を受けた。

それと、なるほどな、と思った。
栖鳳の構図は特徴があって、塊と点がうまく対比せられた構図が多い。
片側に重たいモチーフをおいて、もう片方には飛散させるとか、そういう構図がやたらめったら登場する。
これは上記の構図の取り方から出てくるのかと考えたりもした。単純に好き嫌いと言われたら、そうかもしれないけれど。

この展示の一番最後には同年代の画家達の作品が下絵とともに展示してあった。

一様に下絵といってもこうも違うものかな、と思った。しっかり書き込むものもいれば、やはりあまり書き込まなかったり、本番で大きく変える人もいる。
それに、同年代と雖も、作風が様々だ。同じ時代で、同じ日本画で、こんなにも違うんだと、感慨深くもあった。そして、栖鳳は本当に絵が上手かったのだと思った。
違うな、と思わされた。

この下絵展はついでの気持ちで見たが、製法の絵の上手さや、深みを味わうには不可欠な展示だと感じた。もっといろんな人の下絵が見たいと思った。
非常に勉強になる展示だった。