線と点ー絵と表現について

気付くとまた、かなり長い時間が経ってしまっていた。
いつの間にか8月も目前で、言い得ぬ焦燥感が、いつも何処かにチラチラ見え隠れする様な、そんな気持ちが続いている。

よく惰眠を貪った。
酒を飲んで1日を終えた。
転んで、漫画をよんで時間を過ごした。
ご飯のことばかり考えていた。

そんな風に、絵を描いたり何だということから、程遠い生活をしていたのだ。

自分は兎角漫画が好きだ。
こればかり読んで何日でも過ごしたい。
面白くて仕方ない。ずっと読んでいたい。
また、描くということもしてみたい。
自分の中にある物語を形にしてみたい。

最近思う。
絵なんか描いても、人を感動させることはできないのではないか。
もちろん、絵によって感動することはある。震えるように感動したこともある。
だけど、音楽や小説、漫画、動画によって感動することの方がはるかに多い。
絵や写真、彫刻はもちろん動きはしないし、変化することのない1枚の美だと思う。思うけど、絵の存在価値というのは多くの場合、インテリアということに帰結するのではないかと思う。

今年、感動する様な絵をみたろうか。
音楽では何度でも感動したけれど。

可愛い絵だな、とか、素敵な絵だな、というのは幾つも見たし、もちろん壁にかけるなら人が描いたものがいい、とも思う。
でもきっと多くの人は、インテリアのひとつとして飾られるために絵を描いているわけでなくて、自分の表現とかそんな高邁な精神に則って、筆をとっている様な気がする。

勿論自分もその一人であったけど。
けれど、インテリアとしてもらわれていっても、それはそれでありだとも思う。
描いたものが、描き終わった以上、お金を通して自分から離れていくという過程は、代え難いことだと思うし、いくら高邁なものと雖も、うちにずっとあったら、ただただ嵩張る。

1枚にかける仕事は伝わることもあれば伝わらないこともある。そこに関しては、描く側が立ち入ることができないものだけど、何か伝えるには、非常に不向きな方法だし、これしかないってこともきっとない。

絵がかければ、漫画をかける。漫画をかければアニメーションを作れる。文字がかければ文章を書くことができるし、それらを組み合わせても何も問題はない。

結局そこから自分で選んで、一番合うものを探して、形になる様努力すればいいのだろうけど、時間がない。

なんとなくだけど、ピカソが現代に生まれていたら、デジタルの仕事も多くしていたと思う。

そんな風に、気になることを片端から試して行く時間なんてもうないし、いつでも流行とか、そういうものは時間とともにとめどなく変化して、明日明後日のことはわかっても、3年後のことはまるで予想ができない怖さを孕んでいる。

流行に乗るならできるだけ早く。
乗らないなら乗らない。
絵を描くなら乗らない。

あと3年で30歳。
グータラと不安を繰り返してる。